宇宙エンジニアブログ

日常の些細な出来事から、思わず考えさせられるような深いテーマまで。言葉を通して、人と人との繋がりを感じられるような、そんな雑談ブログです。日々の発見や感じたことを気ままに綴っていきます。

電子書籍を800冊“所有”していた私、アプリ終了で40冊が一気に消えた話

スマホの中の本棚に、いつでも読める状態の電子書籍が800冊ほど眠っています。そんな私のもとに先日、一通のメールが届きました。「読書アプリのサービス終了のお知らせ」。読みかけのミステリの続きはどうなるんだろう。その夜から読み残しの「消化」を始めたのですが、結局40冊は未読のまま、ひと晩で本棚から跡形もなく消えました。

「買った」つもりが、実は「借りていた」

電子書籍やダウンロード版のゲーム、定額制サービス。それらはよく「所有しているようで所有していないもの」と言われます。買ったつもりでも、実は借りているに等しい、というやつです。「まあ、そういうものだよね」と流していた私ですが、実際に自分の本が消えてみて、ようやく腑に落ちました。私はあれだけの金額を支払って、ずっと「読める権利」をレンタルしていたんだな、と。

10年で70万円を「レンタル」していた数字の話

振り返ってみると、電子書籍に払ったお金はひと月平均で6000円近く。10年続ければ軽く70万円を超えます。でも、このうち「確実に残る」のは何割でしょう。サービスが終了すれば読み返せないし、新しいOSにDRMが対応しなければ、読み終えた端末が壊れてしまえば、それまでです。紙の本なら、どんなに古くなっても本棚から出せば読めます。読み放題サブスクに至っては、月額料金を払わなくなった瞬間、読める範囲は一気に狭まります。それも含めて「借り物」なんだと、あらためて思い知りました。

もちろん、電子書籍が悪いわけではありません。場所を取らない、検索が効く、寝転がりながらでも読める。気に入っている面はたくさんあります。ただ私にとってしんどいのは「買える範囲が他人の都合で変わる」こと。売れなければ配信終了、契約が変われば作品が圏外に。読みたいと思ったときに読めない、というのは紙の時代にはなかった体験でした。「売れないものを残す」合理性は分かるけれど、買った側からすると置き去りにされた気分になるのです。

デジタルの「購入」ボタンは、ワンタップで押せるぶん、やけに軽いんです。紙の本ならレジに並んで、現金を出して、帯を外して、といった「買った」という実感を何度も経由するのに、デジタルだとそれが全部省略されてしまう。実感が薄いから積ん読も増えます。なにせ私の本棚の800冊のうち、半分も読み終えていないんですから。 「買った」はやさしい言葉で、私はその言葉を信じすぎていたのかもしれません。

これが「借り物」と「所有」の違いだな、という流れを整理すると、こんな感じです。

flowchart TD
    A[電子書籍を購入] --> B[サービス継続中は読める]
    B --> C[終了や非対応を迎える]
    C --> D{読み返したいか}
    D -->|はい| E[紙や別媒体で買い直し]
    D -->|いいえ| F[そのまま読めなくなる]

消えた40冊と、お気に入りリストの末路

具体的な話をすると、今回消えた40冊の中には、読みかけのミステリも、数年越しで読もうと思っていた長編も入っていました。そのうち数冊だけは「保存」を案内してもらえたので、慌てて読み終えました。締切がないと読めないタイプの私には、むしろありがたい有終の美でした。残りは積んだまま、あっけなく消えていきました。いや、正確には「消えた」のではなく、私の手の届かない場所へ戻っていった、と言うべきかもしれません。読もうと思えばいつでも読めたものが、もう二度と開けない。その知識が、思っていたよりずっと重くのしかかりました。

同じようなことは、これが初めてではありませんでした。数年前、あるサイトで限定配信されていた短編が「サービス終了のお知らせ」と一緒に消えた時も、もやもやしました。さらに十数年前には、買ったはずのゲームのダウンロード版が配信停止になり、買い直そうにもできなくなったこともあります。そのたびに「まあ、しょうがないか」と流していたのですが、今回ばかりは流せませんでした。

そこで決めたのが「本当に何度も読み返すものは、紙で買う」という線引きです。実際、一番好きな小説は先日、紙の単行本で買い直しました。電子書籍は新しい作家や作品の「試し読み」、紙は家の本棚に据える一軍。役割を分けると、ちょっとだけ安心して読めるようになりました。最近は図書館で借りて気に入った本だけ紙で揃える、という流れにもハマっています。

便利さと引き換えに失ったもの

結局私は、「所有」を手放した代わりに「読める環境」に課金していたんだな、と思います。それはそれで便利だし、悪いことではないのでしょう。ただ、お気に入りの一冊が他者の都合で消えてしまう寂しさを知ってしまった今は、たまには本棚の紙の背表紙を眺めながら、その温かさにほっとする自分もいます。

デジタルは確かに便利で、これからもお世話になるつもりです。ただ、その便利さの向こうで何かを失っていないか。そう自問する癖は、今回の40冊が私に残してくれた、地味ながら貴重な置き土産になりました。

読み切る前に消えた40冊を思うと、無理に便利に飛びつくより、ときには「ここにある」と手で触れる安心を大事にしたくなります。みなさんは、「買ったつもり」のデジタル作品が消えてしまった経験、ありますか?

推しのいない人生を50年送ってきた私が、初めて推しができたら生活が変わった話

きっかけは、リビングの壁に吊ってある家族共用のカレンダーに、私の字で「ハートマーク」がひとつ書き込まれたことでした。「9月14日」の欄に、小さく、しかし確実に。自分で書いておいて何ですが、気持ち悪いなと思っています。だって私は、生まれてから今日まで、50年近く「推し」というものを一度も持たずに生きてきた人間です。そんな私が人生で初めて推しを持ってしまった。その経緯と、それでどうなったかを、今日は書き残しておこうと思います。

高校生の89%に「推し」がいる、という話

最近、高校生の9割近くに「推し」がいるという調査結果が話題になっていました。私が高校生だった時代には、そんな言葉はありませんでした。「この曲が好き」くらいは言えても、グッズを集めたりライブに出かけたりするのは、どこか「特別な人がやること」だと思っていた気がします。

そして改めて自分の人生を振り返って、ひとつ確信めいた事実に気づきました。私は、特定のアーティストや俳優、声優を「好き」だと胸を張って明言したことが、たぶん一度もない。人から「好きなアーティストは?」と聞かれるたび、いつも「特にいません」と答えていました。それを、私は「落ち着いた大人」だと勘違いしていたフシさえあります。

「推しのいない人生」が、実は少数派だった

この数字を知って、じわじわと怖くなったのは、「推しがいない私」の方が少数派だったということです。推しがいる人たちの世界がどうなっているのか、私はずっと外野から眺めるだけでした。限定グッズのために開店前から並ぶ人、推しのライブに合わせて有給を取る人、出演情報が更新されるたびに一喜一憂する人。正直、面倒くさそうだなと思っていました。

でも、よくよく考えると、その「面倒くさい」は、私が日常に彩りを持つことを自分から放棄してきた言い訳なのかもしれません。推しがいる人は、推しを通じて日々の小さな楽しみを、自分の意志で選び、育てている。これって立派な「能動的な趣味」です。私はいつも、与えられたコンテンツを、与えられた時間に、受け身で消費するだけ。「何かを好きになる」こと自体に、なんとなく怖気づいていたような気がします。

推しのいない人生は、選択肢が多すぎて、結局何も選んでこなかった人生なのかもしれない。

推し活の最大のコストは、お金じゃなかった

推し活動という言葉は、たいてい「経済」の文脈で語られます。何十万円つぎ込んだ、経済効果は数百億円、といった具合に。確かに私も、推しができてから、ここ5ヶ月でそれなりの出費をしました。ですが、実際に体験してみて思うのは、推し活でいちばん大きく動いたのは財布の中身ではなく、もっと内側の感情でした。

まず、通勤の時間の使い方が全部変わりました。これまで往復40分の道中は、スマホの音楽を流しているだけ。それが今では、推しの出演するラジオのアーカイブ再生ばかり。気づけば1ヶ月に10時間以上、推し関連のコンテンツを消費しています。イヤホンを忘れた日の通勤は、いまや苦痛です。以前の私は、この時間を読書や音楽にあてていたのですが、それらはまるごと推し活に置き換わりました。他の楽しみと「時間を取り合う」ようになったのは、生まれて初めての経験です。

週末の過ごし方も変わりました。以前は「疲れた」と言ってソファでダラダラしていた土曜の午後が、録画した番組を見直したり、推しが出演するイベントの情報を調べたりする時間になっています。「今日は何か楽しいことをした」と思って眠れる日が増えたのは、この数ヶ月が人生でいちばん多いくらいです。

きっかけは、深夜のインタビュー番組

始まりは本当に偶然でした。深夜に流れてきたとあるインタビュー番組で、若手の声優さんが「帰りの電車で、今日の現場での嬉しかったことを思い出して、にやけてしまうんです」と話していたのです。その幸せそうな顔を見て、私はびっくりしました。大人が、仕事のことなんかで、あんな顔をするのか、と。

気づいたら、その人が関わったアニメを片っ端から見て、声を当てたキャラクターをすべて調べ、出演するラジオの過去放送を何年分か遡って聞いていました。4月の話です。それから5ヶ月、我が家では「なんで急にそんなに詳しいねん」と笑われ続けています。家族に見つからないように、こっそり録画している日もあります。見た本数も、聞いたアーカイブの時間も、もう数えたくない数字になってしまいました。

結局、推しとは「自分で選んだ夢中」の話

ぼんやり考えて、私なりにたどり着いた結論は、推しとは「与えられるもの」ではなく「自分で選ぶ夢中」だということです。推しを選んだ瞬間、私は初めて「能動的」に何かを好きになった。すると不思議なもので、毎日がちょっとだけ楽しくなった。いわゆる「生活の解像度が上がる」という感覚を、人生の折り返し地点で初めて味わっています。

とはいえ、私はまだ「推し活」を宣言できる度胸はありません。カレンダーに書いたハートマークも、よく見るとその日の午後は仕事の打ち合わせが入っていて、まさに今、推しと現実の狭間で悩んでいます。

みなさんには推しがいますか? それとも、私と同じ「推しがいない人生」を歩んでいたのに、何かをきっかけに夢中になった人がいたら、ぜひそのきっかけを教えてください。

9月1日から生活道路は30キロ化──標識なしで60キロ走れば一発免停になる日

数日前の夜、帰宅途中の住宅街の裏道で、私は時速60キロで走っていた。交通量はほぼゼロ。前にも後ろにも誰もいない、いつもの「空いてる夜の抜け道」だ。あと7分も走れば自宅というところで、そんな自分に今さらながら背筋が寒くなります。理由は明確です。9月1日から、生活道路の法定速度が時速60キロから30キロに引き下げられる。つまり、明日からはこの走り方が「一発免停」の対象になりうるのです。

明日から変わる「当たり前」

今回の改正をざっくり言うとこうです。住宅街や商店街のような「生活道路」では、標識がなくても法定速度が時速30キロになります。これまで標識さえなければ法定速度は60キロだと思ってきた「看板頼みドライバー」の私には、かなり大きな変更です。標識を探すのではなく、周囲の道路環境から「ここは生活道路かどうか」を自分で判断して減速することが求められます。

しかも、時速60キロのまま走り続ければ超過幅はちょうど30キロとなり、一発免停になりかねません。飲酒にも関わっていないのに、いきなり免停。驚きと同時に「全国で本当に混乱しないのだろうか」という心配が湧きました。

免許取得から15年、私は「看板頼みドライバー」だった

ここで自分の運転歴を振り返ってみると、私はどうしようもなく典型的な「看板頼み」のドライバーでした。教習所で「道路標識を守りましょう」と教えられ、その通りに標識を見て速度を決めてきた。制限速度の標識がない道では、暗黙のうちに「法定速度は60キロだから大丈夫」と思っていました。

ただ、冷静に思い返してみると、これまでずっと、生活道路では無意識に速度を落としていた気がします。周りに家や歩行者が見えたら、誰でも自然とアクセルから足が浮く。みんな多かれ少なかれ、本能で「ここはゆっくり」を感じていたんだと思います。今回の30キロ化は、その「安全への本能」を、ルールとして可視化しただけとも言える。そう考えると、それほど身構えることではないのかもしれません。

どちらかというと気になるのは運用面です。道路によって「30キロ」と「60キロ」の境目が人によって解釈が分かれそうで、前の車が「念のためゆっくり」走っているのを、後続車が「なんでこんなに遅いんだ」とイライラする場面も増えるでしょう。ドライバー同士の空気は、短期的には荒れそうだな、と私は思っています。

夫婦で車を共有する身として、頭を切り替える日々

我が家は家族で2台の車を共有しています。週末のスーパーへの買い出しも、子どもの習い事の送り迎えも、ほぼ全部クルマ。だからこの改正は、無関係ではいられません。夫は「30キロはストレスだ」と言っていますが、私は「これを機に運転を見直そう」と前向きに捉えています。そもそも、二人で運転のクセが違うからこそ、ルールがひとつに定まるのはありがたい面もあるのです。

理由は、昨年の出来事にあります。近所の交差点で、飛び出してきた子どもをギリギリで回避したことがあったんです。幸い事故にはなりませんでしたが、あの時の心臓のバクバク感は、今も忘れられません。もしあの時、時速30キロで走っていれば、止まれる余裕はもう少しあったはず。数字で見ると違いは明らかで、時速60キロの停止距離は約44メートル(乾いた路面・ブレーキに反応するまでの空走距離を含む)なのに対し、時速30キロなら約15メートルと、およそ3分の1まで縮まります。30キロが決して「遅すぎる」わけではないことが、よくわかります。

速度が半分になれば、同じ距離にかかる時間は2倍になる。忙しない毎日で通り過ぎるだけだった道に、実はおいしそうな食堂があったり、季節の花が咲いていることに気づけるようになるかもしれません。人間の脳は、速く動いている間の風景をどんどん切り捨てていきます。だから、あえて30キロで走るというのは、町を歩く感覚に少しだけ近づくことなのかもしれません。

flowchart TD
    A[生活道路の道を走り始める] --> B{歩行者や家が近くにある}
    B -- ある --> C[標識がなくても速度30キロ]
    B -- ない --> D[通常の法定速度内で走行]
    C --> E[メーターで速度を必ず確認]
    D --> E
    E --> F[ゆっくり安全に通り抜ける]

結局、30キロは「遅すぎる」のか

正直に言えば、通勤の朝のような急いでいる時は、30キロを「遅い」と感じることもあるでしょう。前の車に抜かれても、イライラせずにいられるか。そこを割り切れるかどうかが、新しい運転の分かれ目になりそうです。

ここで誤解してほしくないのは、今回の改正は「すべての道でゆっくり走れ」という話ではないことです。高速道路は時速100キロのまま、中央線のある幹線道路も時速60キロのまま。変わるのは、あくまで生活道路だけ。つまり「道の使われ方を自分で見極める力」が、ドライバーに問われているのだと思います。

私はしばらく、家の近くの生活道路で30キロを意識して走ってみようと思います。少し恥ずかしいけれど、安全で、なぜか心に余裕が生まれる気がしています。

30キロは、遅くなることではない。見えてくるものが増えることだ。

皆さんはこのルール、どう思いますか?正直、うまく定着するかは私にもわかりません。でも、町の歩き方そのものが変わる日が来たのだなあと、しみじみ思います。

「すごいですね」と言われると日本語が3秒止まる私──「受け取る練習」を始めたら世界が変わった話

「ありがとう」が出ず、3秒で褒めをなかったことにする

会議が終わった直後、同僚に「さっきの資料、すごく分かりやすかったです」と言われました。正直、心の底から嬉しかった。前日は23時まで直していたので、その労いが沁みました。「ありがとうございます」と答えようとしたのに、口から出たのはこういう言葉でした。

「いやいやいや、フォーマットが良かったからで……先輩の過去資料のおかげで……」

言い終わってから、自分で呆れました。なんで褒められた瞬間に、3秒でそれを「なかったこと」にしようとするんだろう、と。この癖はもう10年近く続いていて、最近やっと「これは何かおかしい」と気づき始めたところです。

褒められたいのに、褒めを8割ダメ出しに変換している

今回書きたいのは、「褒められるのがちょっとしんどい」という話です。この感覚の持ち主は結構多くて、SNSでも時々「褒められたいのに、褒められると身構える」みたいな言葉が話題になります。私も読んで「わかる」と素直に頷けたクチです。

私の場合、褒められると脳内でアラームが鳴ります。「お世辞だ」「まだまだ不足」「これで満足したら成長が止まる」。極端に言うと、褒めを8割「自分へのダメ出し」に変換して受け取っている感じです。

それで厄介なのが、この癖をずっと「謙虚さ」だと勘違いしていたことです。「大したことないです」と返す自分を、物分かりのいい大人だと思い込んでいた。でも冷静に見ると、それは単に「褒めを受け取る練習をしたことがない」だけなんじゃないか、と最近は思うようになりました。

自分は他人を褒めるのはすごく得意です。同僚の発表には「それは大したアイデアだ」と素直に言える。なのに、自分が褒められた瞬間だけ、ぴしゃりと扉を閉めてしまう。褒めるのは得意で、褒められるのは苦手。このアンバランス、明らかに変ですよね。

褒められて嬉しい気持ちは本物なのに、否定で塗りつぶしてしまう。

この一文に、あんまりにも心当たりがありすぎて、読んだときに「ああ、それだ」と思わず声が出ました。

それに、日本の職場ってそもそも褒める文化が薄いじゃないですか。私が新人の頃は「ここ、ちゃんとできるまで直せ」だけを繰り返す上司の下で働いていて、褒めの字が無い部署でした。数字で結果を出すことだけが正義で、出来て当たり前。誰かを認める言葉が飛び交っている記憶が、正直あまりないのです。そういう環境で育つと、褒められたときにどう受け取ればいいのか誰も教えてくれない。褒められ慣れないまま大人になって、褒められるたびに戸惑うのは、ある意味当然の結果でもあります。

今振り返るとあの頃、私は「褒められる=次にもっと評価されるための通過点」という感覚で仕事をしていました。だから褒めの言葉も、素直に受け取る対象というより、次に求められる水準を告げる信号に聞こえていた気がします。

褒めを否定すると、悪循環が始まる仕組み

冒頭の「否定」の癖、図にするとこうです。

flowchart TD
    A[褒められる] --> B[まず否定する]
    B --> C[相手が褒めにくくなる]
    C --> D[褒められる回数が減る]
    D --> A[自信が削がれる]

つまり、否定すればするほど周りから褒められなくなり、褒められないと自信がさらに削がれる。褒められたいと言いながら、褒められる機会を自分でどんどん減らしていた。それに、何かミスをしたときも「やっぱり自分はダメだ」と自己否定で締める癖があって、褒めの否定と自信のなさは根っこでつながっているんだな、と気づきました。本末転倒もいいところだな、と思います。

忘年会の先輩の一言で、受け取り方を知った

それに気づけたきっかけは、去年の部署の忘年会でした。二人きりになった先輩が、ぽつっと昔のことを思い出したように言いました。

「あの、去年まとめた調査資料、いまだに営業の人たちが使ってくれてるよ。あれは本当に助かった」

私は反射で「大した内容じゃないですよ」と返しそうになって、なぜか途中で止まりました。その先輩は仕事を褒められても「いやいや」とは言わない人で、私の「またまた」を聞くたびに「それでいいのか」と小さく睨んでくる人だったからです。

苦し紛れに、私はこう言いました。

「……ありがとうございます。数字をまとめるのが得意じゃなくて、あのときは結構夜更かししたのは覚えてます」

すると先輩が、ふっと笑って「それ、ちゃんと受け取れてえらいね」と言ったんです。恥ずかしい気持ちはありましたが、嫌な気持ちではありませんでした。褒めを素直に受け取るのは、相手に「あなたの言葉は本当に嬉しかった」と伝える行為でもあって、謙虚さと矛盾しているわけじゃないんだ、とそのとき初めて腑に落ちました。

始めたのは「受け取る練習」。ルールはたった一つ

それから私が始めたのが「受け取る練習」です。ルールはたった一つ。

「褒められたら、先に『ありがとうございます』と言う。思ったことがあれば、その後で付け足すのは自由」

要するに「否定を先にしない」。心から「まだまだだ」と思うなら、それは褒めを受け取ってから言えばいい。この小さな順番を変えるだけで、世界の見え方は随分変わります。

具体的には、まず一言目を「ありがとうございます」に固定することだけを目標にしています。あとは普段通りでいい。「いやいや」と言いたくなったら、その後に続ければいい。それだけの小さな変更なのに、不思議と「ありがとう」の一言が出ると、その後の会話もふわっと柔らかくなるんです。

まだ練習して数ヶ月ですが、一番変わったのは「褒められた日が、ちゃんと嬉しい日になった」ことです。今までは褒められても「どうせお世辞」と流していたので、一日の終わりに何が嬉しかったのか思い出せませんでした。今は「あの人にこう言われた」という小さな貯金が、積み上がっていく感覚があります。

褒められ慣れないのは、性格じゃなく練習不足

褒められるのがしんどい、と今まさに思っている人がいたら、その感覚は性格のせいではなく「受け取り方の練習」の問題だよ、と伝えたいです。いきなり全部受け取れる必要はありません。最初の一行だけでも「ありがとうございます」と口に出してみてください。

私は今も、褒められると心臓が少し跳ねます。それでいいんだと思います。否定の言葉を先に出さず、ありがとうを先に出す。それだけで、相手との距離も、自分の中のざわつきも、確実に小さくなっていくので。

褒めを否定しない世界は、思っていたよりずっと息がしやすいですよ。

あなたは最近、褒められたことを、ちゃんと受け取れていますか?

レジ打ち『最速』を競わせたら『遅い客』が敵に見えた──数字で人を測る話

ゆっくり小銭を数える人に、心の中で急かしていた自分がいた

今朝、コンビニのレジで、前の人が小銭をゆっくり数えている。10円玉や5円玉を財布からひとつずつ確認しながら出すから、たかが40秒の出来事のはずなのに、わたしは心の中で「早くして…」と思ってしまった。店員さんは笑顔で待っているのに、こちらはなぜかソワソワする。そんな自分に「あ、これ昔の自分と一緒だ」と妙に納得した出来事がありまして、今日はその話を書きます。

「レジ打ちの速さ」を競わせたら、何が起きたか

先日、こんな話を見かけました。あるスーパーの店長が、レジ打ちの速さを競うコンテストを廃止した話です。理由がこうでした。「速さを競わせたら、パートさんが『遅い客』を嫌うようになる。小銭をゆっくり数えるおばあちゃんが、敵に見えてしまう」。代わりに始めたのが「今日あった、良い会話」の共有。すると、常連が増えたらしいんです。

これ、何がすごいって「測るものを変えただけで、人の接し方が変わった」ところです。速さを測っていれば、店員さんの頭の中は「いかに早く捌くか」で埋まり、遅い客は邪魔者になる。意地悪になったわけではなく、指標がそうさせている。この風景は、スーパーの外にもあります。

「数字は、モチベーションを作る。そして歪みも作る」

わたしはこの話で、あることに改めて気づかされました。

評価の数字は、人の性格まで作ってしまう。

数字で測り始めたら、人は数字のために動く。何が起きるかというと、測られたもの以外の価値が、いつの間にか見えなくなるんです。

ブログでも同じことがありました。はてなのスターやアクセス数が伸び始めた時期、わたしは書くテーマを「読まれそうなもの」から選ぶようになっていた。気づけば「自分が書きたいこと」を書くのをやめて、タイトルだけ先に決める書き方になっていた。あれもまさに、レジの速度に呪われた店員さんと同じ状態だったんだと思います。

flowchart TD
    A[数字で評価を始める] --> B[数字を上げる行動が増える]
    B --> C[測られない価値が見えなくなる]
    C --> D[行動が偏って雰囲気が悪くなる]
    D --> E[測る指標を変えてみる]
    E --> F[見える景色が変わる]

仕事でも似た経験があります。前にいたチームで「処理したチケット数」を個人別にランキング化した時期がありました。するとどうなったか。「簡単なタスクを何個もこなす人」が評価されて、時間のかかる難しい案件ほど誰も手を挙げなくなる。数字は確かに「見える化」だけど、場合によっては「見えるものだけに価値がある」と錯覚させるんですよね。結局そのランキングは数ヶ月で廃止になり、代わりに「対応した内容の振り返り」を週に1回共有する形へ。変えたのは測る数字だけなのに、チームの空気は少しずつ柔らかくなりました。

数字は悪くない。悪いのは、何も考えずに「測りやすいもの」を測り始めること。これがこの話の一番の学びでした。

ブログのPVに縛られていた、わたしの1年

実体験の話を少し。開設して3ヶ月ほどの頃、ある1本の記事でアクセス数が急に伸びたときがありました。そのときの「数字が増える快感」が忘れられず、そこから半年くらい、毎日アクセス数をチェックする生活が始まりました。

結果どうなったか。書きたいテーマが浮かんでも「これは数字にならないだろうな」と自分でフタをするようになりました。数字が伸びる型と伸びない型があるのがわかってくると、記事はどんどん型にはまっていく。ある日、下書きのタイトルを一覧で眺めたとき、「これ、ぜんぶ本当は書きたいことじゃないよな」と気づいて、はっとしました。

それから自分に2つのルールを課しました。1つは「下書きの段階ではアクセス数を見ない」こと。もう1つは書く前に一度「これは自分が読みたいか?」と問うこと。数字は公開したあとに見る。これだけで、書くことの苦しさがだいぶ減ったんです。

ルールを守って最初に書いた記事は、正直、不安でした。下書きの段階で何度も「これ、読む人はいるのかな」と迷って、そのたびに自分へ問い直します。「これは、自分が読みたいか?」。そうすると不思議と、書きたいほうの答えが返ってくる。仕上がった記事は数字が伸びない日も多かったけれど、「書けてよかった」と思えるものは確実に増えました。

あのスーパーが「速さ」から「良い会話」に測るものを変えたのと同じで、わたしも「読まれるか」から「書きたいか」に測るものを変えた。きっと、そういうことなんだろう。

あなたが測っている基準は、本当に測りたいものか

数字に振り回されるのは、数字を扱う人間の宿命みたいなところもあります。でも今朝のコンビニで感じたイライラも、冷静に見れば「測るものが速さになっている」だけの話なのかもしれません。

物事を測ることは悪くない。ただ、測るものを間違えると、見える景色まで変わってしまう。「今の自分は、何を基準に動いているんだろう」──たまには、そんな問いかけを自分にしてあげるのも悪くないんじゃないかな、と思います。あなたが今、基準にしている数字は、本当に測りたいものでしょうか。

NISAを始めて2年、1日50回も株価を見てた私が『放置』に切り替えたら資産が増えた話

朝起きたらまず証券アプリを開く。歯を磨きながら値動きを眺め、電車の中でも開いて、お昼にも、寝る前にももう一度。スマホのスクリーンタイムを調べたとき、証券アプリだけで1日平均50回、40分以上も使っていたのを見て、思わず笑ってしまいました。そしてその40分、意味のあることをしていたかというと、正直なにもしていないんです。ただ「上がった」「下がった」で一喜一憂していただけ。

ある朝、布団の中で何気なく開いたチャートが前日比で赤くなっているのを見て、その日一日ずっとモヤモヤしたこともあります。株が下がったからといって、私の生活に何かが変わるわけでもないのにです。

「収入20万円で11万円投資」という話を見て

最近、投資にのめり込みすぎてしまう人たちの話が話題になっていました。収入20万円の人が11万円を投資に回すとか、投資の年間枠を満額埋めるために食費を切り詰め、交際相手と別れた人までいるらしい。正直びっくりしたんですが、私にはあまり他人事とは思えません。

というのも、新NISAが始まって軽い気持ちで「つみたて投資」をはじめた私は、似たような沼に足を突っ込んでいた時期があったからです。金額の規模は大したことないんですよ。問題はお金じゃなくて、心の持っていかれ方でした。

投資で一番こわいのは「下がること」じゃなく「見てしまうこと」

これは私の持論です。投資を始めて数ヶ月、いちばん消耗していたのは資産が減ることではなく、スマホを開く手でした。

日々の値動きなんて、1日で大したことには変わりません。それなのに「さっきより上がってる」「今は下がってる」と、1時間ごとに確認してしまう。気づけば会議の合間も、手が勝手にアプリを開いている。

しかも不思議なのは、下がった日だけじゃなく、上がった日も開いてしまうこと。「もう少し待てばもっと上がる?」と次のチャートが見たくなって、含み益が出ているときほど、開く回数が増えるんです。

このループに気づいたとき、私はこう図にしてみました。

flowchart TD
    A[値動きをチェック] --> B[少しの上げ下げで一喜一憂]
    B --> C[またすぐ確認したくなる]
    C --> A
    B --> D[時間も気分も削られる]

見事な負のループです。よく「長期投資は時間を味方につけることだ」と言われますが、毎日見ていたら時間は味方になってくれません。むしろ、その日の気分で損切りや利確を繰り返して、はじめに「コツコツ続けよう」と決めた気持ちから、どんどん離れていく。

それに、冷静に考えれば毎日見たところで、私にできることなんてほとんどありません。毎月決まった額を積み立てるだけのスタイルで、売買のタイミングを計るわけでもない。なのに1日40分をただ眺めるだけで溶かす。これはお金と時間を二重で失っているな、とようやく気づきました。

人の注意力って、大したことをしていなくても消費されてしまうらしいです。パソコンでタブを何枚も開きっぱなしにしていると、気づかないうちに処理が重くなるみたいに、毎日眺めるだけで判断力が鈍っていく感じがしました。

「1週間、アプリを開かない」を実際に試した話

きっかけは2年前です。ある日、会議の最中にポケットのスマホで証券アプリが開かれているのを見て、ぞっとしました。気づいたら触っていた、というあの感覚。たぶん、これがわかるのは投資をしている人だけだと思います。

そこで実験をしました。ルールはたったひとつ。「1週間、アプリを開かない」こと。

結果、意外と平気でした。1日目こそ禁断症状みたいに手が動きましたが、2日目からはどうでもよくなる。週末に届く「今週の評価額」の通知も、「あ、そう」という感覚で流し見するだけになりました。

そして面白いのが、この「放置」の期間の成績が、毎日見ていた時期より良かったこと。当たり前といえば当たり前で、短い上下に振り回されて損切りしたり、「もうちょっと」と欲張って売り時を逃す失敗が、全部なくなったからだと思います。

チャートを眺めていると、やたら売買したくなるんですよね。「いまがチャンスでは?」と。でも、そのチャンスの9割はただのノイズ。毎日見るのをやめたら、ノイズに反応する機会ごと消えて、結果的に「買ったまま放置」が一番の成績になりました。実に身も蓋もない結論です。

結局、私の資産をいちばん育ててくれたのは、何かをすることではなく、何も「しない」勇気でした。

いまは週に1回、通知を眺めるだけ。むしろ久しぶりに開いて「あれ、増えてる」と気づくほうが、よっぽどうれしい。

財産を育てるなら、まず距離を置いたほうがいいのかもしれない

「投資は余裕資金で」「長期で」「分散を」という正しい話は、街中にいくらでも転がっています。でもそれ以上に、私は「見ない」を続けられる人が、結局は勝つんじゃないかと思うようになりました。

毎月決まった額を放り込み続けて、あとはほったらかす。NISA貧乏と呼ばれる人たちの話を聞くと「すごいな」と思う反面、あれだけ必死にやっても、最終的な結果は私みたいに放置した人間と大差ないんじゃないか、とすら思ってしまうのです。自分の機嫌と時間をお金に預けない、という意味では、むしろ距離が正義なのかもしれません。

皆さんのスマホにも、つい開いてしまうアプリはありますか。私はいま、見るのをやめた回数すら、もう数えていません。

賞味期限切れの調味料、うちの冷蔵庫から48本出てきた──「もったいない」の正体

冷蔵庫の奥から出てきた「48本」

先週末、冷蔵庫の大掃除をしました。棚を全部引っ張り出して、瓶の賞味期限をいちいち確認していると、出てきたのは「賞味期限切れ」の調味料と保存食、なんと48本。3年前のドレッシングもあれば、いつ買ったのかも思い出せない焼き肉のタレもあります。

並べた瞬間、さすがに笑ってしまいました。足りない調味料は明らかに買い足しているのに、古い瓶はひとつも減っていない。つまり私はここ数年、同じものを買い続けていたというわけです。

合計金額をざっと計算したら、6,000円を軽く超えていました。捨てるにしても罪悪感がある。でも残しておくにしても場所を取る。私はそのまま30分、冷蔵庫の前で立ち尽くしました。

これは「もったいない」じゃない気がしてきた

そもそも今日の話のきっかけは、本当に些細なことです。「もったいないから捨てられない」と、冷蔵庫の奥に突っ込んだ瓶たち。それを放置した結果が、この48本でした。

一覧を眺めていて、ようやく「あれ?」と気づいたんです。私はこの瓶たちを「もったいないから」捨てられなかった。でも冷静に見ると、どれも一度も開けていないし、これから開ける気配もありません。

つまり「使わない」のに「捨てない」。それって、本当は「もったいない」の反対側にある気がするんですよね。

「もったいない」は、「使わない」ことを許してしまう魔法の言葉でした。

捨てるのには、たった0.1秒の判断があればいい。ところが「いつか使うかも」を選ぶと、その判断は先送りになります。先送りにしたものは、いつまでたっても「いつか」のまま。結局、棚の一番奥で瓶ばかりが増えていく。

しかも怖いのが、この「追いやられ」はとても静かに進むこと。表の棚には新しい瓶が並び、奥の棚には古い瓶が詰まっていく。気づいたときには、冷蔵庫の中に、もうひとつの冷蔵庫ができているみたいでした。

同じような現象は、職場の机の中でも起きている気がします。「捨てるのはもったいない」と言う人ほど、新しいものは迷わず買う。古いものには執着しておきながら、新しいものには無頓着。冷蔵庫の中だけの話ではないんだな、と少し引きました。

一番無駄だったのは「開けなかったこと」

改めて順番をたどってみると、どうも私は「どこで無駄が起きているのか」を捉え間違えていたようです。

買った時点では、私はきっと本当に使うつもりでした。「今度こそ使い切るぞ」と意気込んで買った記憶が、実はいくつもあるんです。

問題は、そのあとの「開けない放置」でした。開けて「失敗した」としても、その無駄は数百円で済みます。でも開けずにしまい込むと、冷蔵庫の場所代と気にかける時間ごと、全部じわりと失われていく。調味料は開封前なら数年もちますが、香りは確実に落ちていく。一度開ければ味がわかるのに、それを確かめないまま、また新しく買う。それって結局、元が取れていないですよね。

母から届いた瓶詰めの話

実はこの「開けない放置」、調味料だけの話ではないんです。だからこそ、今日は書き留めておきたい。

ちょうど1年前、実家の母から瓶詰めの惣菜が届きました。たぶん手料理です。私は「こんな貴重なものを、もったいないから大事なときに食べよう」と思って、冷蔵庫の一番奥にしまいました。

それから数か月、その瓶は一度も開かず、気づけば賞味期限が来ていました。私は泣きそうになりながらそれを捨てました。母は何も言いませんでしたが、あの瓶詰めはたぶん「早く食べてほしい」という意味だったはずです。もしかしたら、たくさん喋りたかったのかもしれません。

そのときようやく気づきました。「大事なとき」とは、永遠にやって来ないものを言うんだと。取っておいたつもりが、実は一番大切にするべき瞬間を、自分の手で逃していた。開けなかったことこそが、いちばん申し訳ないことでした。

今やっているのは「今週中に開ける」だけ

それから方針を変えました。新しい瓶を買ったら、一番前の棚に置いて、その週のうちに開ける。開けてしまえば、使い道には困りません。ドレッシングはサラダに、つゆはうどんに。48本あった瓶たちも、今では10本以下まで減りました。

食費も、少しだけ減った気がします。「捨てるか」「使うか」、どちらかを迷わずに選ぶだけで、毎日がちょっと楽になったんですよね。冷蔵庫の奥の「もうひとつの冷蔵庫」も、だいぶ姿を消してくれました。

買い物の前には、いちど棚の在庫を確かめるようにもしました。調味料を使い切ると、同じ段の奥ががらんと空く。それがなぜか、ちょっと気持ちいいんです。新しく買う前に「本当に足りないか」を見るだけでも、無駄な出費はずいぶん減る気がしています。

もしあなたの冷蔵庫の奥にも、「いつか使うかも」としまい込んだ瓶があるなら、今日、1本だけ開けてみてください。意外と「使える」ものばかりだと思いますよ。開けてみてだめなら、それは「捨てるべきもの」だった、それだけの話です。

この記事を書くために48本を数えるのが、正直一番つらかった作業でした。それでも、数えた分だけ「自分がどれだけ無駄を重ねていたか」が見えて、あの瓶たちはもう二度とためることがない気がしています。

「もったいない」のいちばんの敵は、「やめておこう」ではなく「いつか使うかも」なのかもしれません。48本の瓶たちは、そんなことを教えてくれました。捨てるより、開けずに置いておくほうが、よっぽど「もったいない」ことだと思うんです。