宇宙エンジニアブログ

日常の些細な出来事から、思わず考えさせられるような深いテーマまで。言葉を通して、人と人との繋がりを感じられるような、そんな雑談ブログです。日々の発見や感じたことを気ままに綴っていきます。

猫は1人で「8〜12時間」しか留守番できない──それを知って、私は旅行の計画を全部変えた話

猫は1人で「8〜12時間」しか留守番できない──それを知って、私は旅行の計画を全部変えた話

今年の初秋、猫を拾った。スーパーの裏の駐車場に置かれた段ボール箱の中に、小さな茶トラが1匹だけ入っていた。夜の9時、スマホのライトを向けたら、彼はこちらをじっと見て、細い声で鳴いた。うっかり目が合ってしまったのが、運の尽きだった。

翌日、仕事を半日休んで動物病院へ連れて行った。体重は2キロそこそこ。生後3カ月ほどだろうと言われた。「うちの子にします」と決めたその日から、私の生活は静かに変わっていった。いちばん変わったのは「旅行」だ。もともと私は、月に1回は1泊2日でどこかへ出かけるタイプだった。それが今は、家を空けるのはせいぜい半日。次の大型連休の計画は、全部白紙に戻っている。

猫の留守番の「限界」という数字

きっかけは、たまたま読んだ記事だった。猫が一匹で過ごせる時間の目安について、アメリカの獣医師の話によると、8〜12時間が目安で、最高でも24時間だという。自動給餌器を置いたとしても、誰も来なければ水は汚れるし、トイレもすぐに満杯になる。1日を超えて誰も来ない状態は、さすがに無理があるらしい。

理屈は分かる。むしろ、私はこの数字を見て、なぜか安心した。自分が「猫を放っておけない」と感じていたことが、独りよがりの過保護ではなかったと分かったからだ。1泊2日の旅行を「できない」と考えるのは、私のわがままではなくて、動物を扱う専門家の基準と一致していた。この確認が、少しだけ胸を軽くした。

ただ、安心した一方で、引っかかりも残った。留守番できる時間に「限界」があるなら、それを超える選択をするとき、人間はどうすればいいのか。とくに一人暮らしなら、頼れる人は限られる。この問いは、私の中でなかなか消えなかった。

「猫は1匹で大丈夫」は本当だったのか

「猫は自立している」という言葉を、何度聞いただろう。世話がいらない、1匹でも平気、一人暮らしに向いている。私も飼う前は、本気でそう思っていた。実際、仕事に出ている間、彼はソファで丸くなって昼寝をしている。帰宅すれば玄関まで来て「おかえり」と鳴く。とても順応しているように見える。

ところが、留守番カメラを置いて出かけた日、そのイメージは崩れた。私が家を出た瞬間から、彼は玄関の前に座っていた。1時間後も、3時間後も同じ場所だ。餌にもトイレにも行かず、ただドアをじっと見つめている。帰ってきた私に、彼はいつもより長く、大きな声で鳴いた。あの日、私はようやく気づいた。

猫は留守番が「できる」。けれど、それは「平気」とは、全然違う。

「できる」と「平気」は、別のものなんだ。これは人間にも当てはまる気がする。仕事のできる人と、心から楽しめている人は、必ずしも同じではない。会議をこなし、予定をこなしていても、心はどこか別の場所にあることがある。私はこの猫の姿に、自分の「大丈夫」という言葉の軽さを思い出させられた。

猫は犬より「手がかからない」と言われる。確かに散歩はいらないし、しつけも最小限だ。でも、それが「好き勝手に生きていて、人間に依存しない」とは別の話だと、飼ってから分かった。彼は自由気ままなようで、私の帰りをいつも待っている。この矛盾が、たぶん猫という生き物の本質なんだと思う。

それからというもの、私の帰宅時間は、以前よりずっと規則的になった。残業で終電近くまで会社にいる日は、家で彼が待っていると思うと、自然と手早く片付けられる。夜の飲み会に「猫がいるから」と断れるようになったのも、意外な副産物だった。誰かに必要とされることが、こんなに心地いいとは思わなかった。

2泊3日の出張を「日帰り」にした話

この秋、2泊3日の出張が入った。以前の私なら、前日からワクワクしながらホテルを検索していただろう。今は違う。最初に浮かぶのは、猫のことだ。2泊3日は24時間を超える。つまり、誰かに頼むか、預けるかしかない。

頼れる相手は、遠くに住む実家の母しかいなかった。「猫を連れてきなさい」と言われたが、彼は知らない場所が大の苦手だ。車に乗るだけでも震えている子を、3時間かけて連れて行くのは現実的じゃない。ペットホテルも考えた。しかし、初日の面談で、預かる間はケージの中で過ごすと聞いて、私は断念した。

結果、私は出張を「日帰り」に組み替えることにした。朝の新幹線で現地に入り、打ち合わせを前後に詰め込んで、終電で帰る。ホテルは使わない。取引先には「急用ができて」と頭を下げた。

当日は朝5時に起きた。彼にごはんを多めに置いて、トイレをきれいにして、玄関のカメラを確認する。駅へ向かう電車の中で、何度もスマホの画面を開いてしまった。打ち合わせの合間に見る映像の彼は、昼間は意外と普通に寝ていて、それにまた安心する。終電の新幹線の中で、一日分の疲れと「あと少し」という気持ちが同居していた。

正直、めんどくさい。体力的にも、以前よりキツい。でも、帰宅して玄関に駆け寄ってくる彼の顔を見ると、この選択は間違っていなかったと思える。旅先の夜に、留守番カメラの映像で彼の寝顔を見る安心感は、一人で過ごす自由な夜よりも、ほんの少しだけ重い。帰る場所がある安心と、どこへでも行ける自由は、天秤にかけると案外、同じくらいの重さなのかもしれない。

自由を手放して、帰りたい理由を拾った

猫を飼ってから、私は「どこへでも行ける自由」を手放した。飛行機に乗るときも、最終的に考えているのは帰りの便だ。だけど、その代わりに、家に帰りたいと思う理由を、ひとつ手に入れた。どちらのほうが大きいかは、まだ分からない。分からないけれど、今夜も彼は、私が帰るのを玄関の前で待っている。

猫を飼っている皆さんは、家を空けるとき、どうしていますか。ペットホテル派? それとも、私みたいに予定そのものを変える派? 留守番の工夫があったら、よかったら教えてください。

時給と“つらさ”は比例しない——デスクワーク15年、週末スキマバイト12回の結論

時給と“つらさ”は比例しない——デスクワーク15年、週末スキマバイト12回の結論

去年の秋、初めてスキマバイトを申し込みました。38歳、デスクワーク歴15年です。応募したのは、駅から徒歩2分のコンビニの深夜の品出し。時給は1,100円でした。

こんなもの、余裕だろうと思っていました。荷物を棚に並べるだけです。締め切りも、会議も、資料もない。デスクワークより楽に決まっています。

ところが、2時間目にして、私は小さな事件を起こしました。冷凍食品の段ボールの上に、ヨーグルトの箱を重ねてしまったのです。

「それ、上に置くと潰れますよ」

店長に声をかけられて、私は初めて「今、自分が働いている」ということを思い出しました。

時給1,100円の初日、ヨーグルトを冷凍の上に置いた

私は15年間、肉体労働を「単純な仕事」だと思ってきました。この12回の現場で、それが完全に間違いだったと知りました。

きっかけは副業のためでも、転職のためでもありません。単純な興味です。長年座って考えて働いてきた自分が、立ちながら体を動かす仕事をすると、何が見えるのか。そういう自分勝手な実験として、私は週末を中心に12回、いろいろな現場に立ちました。倉庫のピッキング、工場の検品、イベントの設営、カフェのホール。どれも時給1,000円前後の仕事です。

肉体労働は「頭を使う」仕事だった

最初に気づいたのは、肉体労働は想像よりはるかに「頭を使う」ということでした。ピッキングは棚の番号と個数を覚える作業です。検品は「これ、何かおかしい」と目で引っかける仕事です。カフェのホールに至っては、3卓先の客がフォークを落とす瞬間を目で追いながら、同時にレジの動きを把握します。並べ方一つとっても、人通りの多い棚とそうでない棚を考えています。

しかも、客の目があります。品出しの途中で「すみません、〜はどこですか」と聞かれる。私はそのたびに棚を指さすしかできません。指さす先は、自分で覚えた位置です。座って資料を作っているとき、私は「ここがどこにあるか」を誰かに案内することは、ほとんどありません。あの「指さし」の回数だけ、私は現場で場所を覚えました。

つまり、きつさの正体は「体を使うこと」ではなく、「常に気を張っていること」のほうに近かったのだと思います。これは、デスクワークで何度も経験してきたはずの感覚でした。なのに、なぜ現場で初めて「ああ、これが仕事のきつさだ」と思ったのでしょう。

答えは、たぶん私がずっと「考えて働くことが仕事の本質だ」と思い込んでいたことにありました。誰にも指示されず自分で組み立てる作業に慣れ切った私は、逆に「他人が決めた手順を、正確に繰り返す」仕事の価値を、心のどこかで低く見ていた。現場はそれを容赦なく返してきます。段ボールの置き方ひとつ、フォークの向きひとつで、誰かが困る。

もう一つ気づいたのは、現場の仕事は「数値で測られる」ということです。検品なら1時間に何箱通したか、ピッキングなら1時間に何件拾ったか、全部、記録に残ります。デスクワークには、そんな数字はありません。あるのは締め切りの日付と、上司の「よくできたね」だけです。正直、最初は怖かった。時給1,100円は、裏を返せば「この1時間、この金額を稼ぐ価値があったか」を、毎時間試されている感覚でもあります。

「単純な仕事」なんてものは、この世に存在しない。勝手に「単純」と分類しているのは、やったことのない人間だけです。

深夜0時のピッキングで「仕事ができる」を再定義した

もっとも印象に残っているのは、配送センターのピッキングの日です。深夜0時から朝8時までの夜勤でした。時給は1,250円。12回の中で一番高い。

行ってみて驚きました。2階建ての巨大な倉庫に、50人ほどのスタッフがフロアを埋めています。それぞれが手元のタブレットを見ながら、棚を往復しています。私は20分の研修を受けて、いきなり本番に放り込まれました。

最初の30分で、私は自分の位置を見失いました。同じ棚が3回並んで見える。商品コードは5桁なのに、3桁目でいつもつまずく。

隣で同じ作業をしている女性がいました。40代くらいの、ベテランの雰囲気です。私が同じ場所を2往復しているのに気づいて、何も言わずに、私のタブレットを指さしました。

「コードは、棚のラベルに書いてあるよ。番号順だから」

それだけでした。しかし、その一言で私はその日、一度も迷わなくなりました。

彼女の作業量は、私の倍はありました。しかも、私は彼女の名前を知りません。朝、入れ替わりで帰るとき、私は「ありがとうございました」とだけ言いました。彼女は手も止めずに「お疲れさま」と返してきました。

その夜、風呂に入りながら、私は変なことを考えていました。この人は私の15年のデスクワークを何も知らない。私も彼女の何年かのピッキングを何も知らない。それなのに、その夜だけは、確かに同じ仕事をしていた。

「仕事ができる」というのは、上司に評価されることでも、成果を出すことでもなく、隣の人に仕事を教えられることなのかもしれません。

12回やって、変わったこと

スキマバイトを12回やって、私のデスクワークは少しだけ変わりました。資料を作るとき、読み手が「どこでつまずくか」を考えるようになりました。たぶん、あの棚のラベルを思い出すからです。私は、タブレットの番号を探す人の気持ちを、初めて知ったのです。

結局、あの夜の彼女がやったのは、私が普段後輩にやっていることと、何も変わりませんでした。困っている人が、どこで困っているのかを指さして教えただけです。

次にまたスキマバイトをするか、と聞かれれば、たぶんします。副業のためではなく、自分の思い込みを定期的に壊すためです。15年同じ仕事をしていると、世界は自分の机の広さにしか見えなくなる。あの倉庫の広さを思い出せるうちは、まだ大丈夫だ。

仕事のきつさは、職種では決まりません。それが私の12回の結論です。あなたの仕事の「きつさ」は、どこにありますか。

「買うのは10秒、捨てるのは3往復」──モバイルバッテリー1個の処分で役所を3往復した話

「買うのは10秒、捨てるのは3往復」──モバイルバッテリー1個の処分で役所を3往復した話

半年に一度くらい、部屋のどこかに「捨て方がわからないもの」がたまっていることに気づく。

つい先週、そんな私に山がやってきた。充電が1時間も持たなくなったモバイルバッテリーを、どうにか処分しなければならない。買ったときは「ポチッ」の一瞬だった。捨てるときは、役所を3往復することになった。

3往復。誇張ではない。本当に3回、行き先を探して往復したのである。

買うのは10秒、捨てるのは3往復

買うのは簡単、捨てるのは難しい。このアンバランスは、いまの日本にけっこう広く転がっている。コンクリートブロックも園芸用土も、使い終わった電池も。調達の導線だけが異常に発達して、廃棄の導線が追いついていない。最近はてなでも「廃棄の導線をちゃんと整えてほしい」という声が上がっていて、なるほど、私はその不便さを身をもって実感している側の人間だった。

私が捨てようとしていたのは、スマホ2台分を充電できる大型のモバイルバッテリー。3年前に買って、ほぼ毎日使っていた。ある日、満充電してもスマホ1台分しか持たなくなった。寿命である。

最初は「家電量販店」へ行った

モバイルバッテリーは、正式には「使用済み小型充電式電池」という扱いになる。リチウムイオン電池は捨て方を間違えると発火して、収集車や清掃工場の火災の原因になる。だから回収ルートが決められている。安全のためだと、頭では分かっている。

だが、実際に捨てようとすると「どこに持っていくのか」が、誰も教えてくれない。自治体のサイトには「電池類は回収しています」とだけ書いてある。じゃあ、どこに?という肝心な部分が案内のどこにもないのである。

まず思い出したのが、家電量販店の入り口にある使用済み電池の回収ボックス。休日にモバイルバッテリーを持って行った。ところが店頭のボックスは「単三・単四などの乾電池」用で、充電式のバッテリーは対象外だった。店員さんに聞くと「充電式はメーカー回収か、市の処理施設ですね」と言われた。

flowchart TD
    A[捨てたいものが出る] --> B[どこに出すのか分からない]
    B --> C[家電量販店の回収ボックスへ]
    C --> D[充電式は対象外と判明]
    D --> E[市の環境センターへ]
    E --> F[30秒で回収完了]

市役所へ行くと、さらに遠くを案内された

「充電式は市の処理施設ですね」と言われたので、次は市役所の窓口へ向かった。環境課の窓口で「モバイルバッテリーの処分をしたいのですが」と伝えると、職員の人は落ち着いた口調で「こちらでは受け付けていません。郊外の環境センターへお持ちください」と答えた。場所は丁寧に教えてくれたが、バスで片道30分、往復で1時間はかかる距離だ。「時間に余裕を持って来てください」と言われ、その日は持ち帰って帰るしかなかった。

なるほど、これが2往復目の正体だ。行き先は間違っていない。ただ、案内されるたびに「あと1回、もう1ヶ所」と遠い場所へ誘導されていく。最初から最終目的地を教えてくれれば、この往復は必要なかったはずだ。

市の環境センターで、一瞬で終わった

その翌週、今度は市の環境センターに行った。受付で「モバイルバッテリーの処分をお願いしたい」と伝えると、職員の人が奥から回収箱を持ってきて「ここへ入れてください」と。手続きは30秒で終わった。なんだ、ちゃんと受けてくれるじゃないか。最初からここに来ればよかった。

ただし、この「最初からここに来ればよかった」に、3往復の全費用が詰まっている。私の二回の無駄足は、「どこで知るか」の導線が細すぎたせいで生まれたものだ。最終目的地にたどり着くまで、行き先を誰も案内してくれなかった。

そして家に帰ってから、さらに気づいた。部屋には、同じく捨て方を調べないといけないものがまだ眠っていた。充電式の扇風機、シェーバー、ワイヤレスイヤホン。どれも小型の充電池を内蔵していて、処分方法がそれぞれ微妙に違う。

  • 充電式の扇風機 → 小型家電としてリサイクル回収
  • シェーバー → 内蔵電池を確認して自治体の回収へ
  • ワイヤレスイヤホン → 電池ごと自治体の電池回収へ

どれも一家に一台あるようなものばかりなのに、ルールは製品ごとに別々だ。家電リサイクル法の対象にもならず、資源ごみにもなりきらない。小さな製品ほど、この「どこにも該当しない」沼に落ちる。

買うときはポチッの1秒なのに、捨てるときは3往復。この非対称さが、すべての面倒の正体だ。

買う前に、5秒だけ捨て方を想像する

最初は「制度のバグだ」と腹が立った。けれど、3往復してようやく見えたのは、ルール自体はどれも合理的で、問題は伝える側の導線が細すぎることだ。買うときはレジの前で何も言われないのに、捨てるときだけ急に「自分で調べてください」になる。この不便、実はみんな一度は詰まっている気がする。ただ、声を上げる人は少ないだけで。

消費者側にもできることはある。買う前に、5秒だけ「これ、どうやって捨てるんだろう」と考えること。ポチッと押す前の5秒があれば、この手の3往復は確実に減る。片づけを終えた私は、そう思いながら新しいモバイルバッテリーを買った。もちろん、捨て方を確認してから、である。

捨てるのに3往復。この面倒、きっと私だけじゃない。

みなさんの家にも、捨て方がわからずに眠っているものはないだろうか。

大事な日の前夜はいつも深夜2時まで眠れなかった私が、「あきらめ」を覚えたら眠れた話

大事な日の前夜はいつも深夜2時まで眠れなかった私が、「あきらめ」を覚えたら眠れた話

大事な用事の前日、私は決まって眠れません。早朝の飛行機、朝一のプレゼン、前泊で出かける旅行。10年近く、前夜はいつも午前2時まで眠れず、当日は頭がぼんやりしたまま本番を迎える。それで失敗したことも、数えきれないほどあります。特にひどかったのは、寝不足のまま大事なプレゼンに臨んで、資料の順番を飛ばして真っ白になった日。あれ以来、前夜の眠りには常にビクビクしていました。

「疲れているのに寝られない」——このあるあるは、あるある界の中でも最強クラスではないでしょうか。最近ネットでも、「寝ないとヤバい時ほど寝られないのがつらい」という投稿にたくさんの共感が集まっていました。みんな同じなんですね。必要に迫られれば迫られるほど眠れなくなる、という逆説。今日はこの「睡眠の逆説」について、自分の体験を交えて書いてみたいと思います。

なぜ「大事な日」ほど眠れないのか

なぜ大事な日の前夜に限って眠れないのか。あれの正体は、たぶん「寝なきゃ」という焦りだと思っています。

布団に入っても目は冴える。頭の中では明日の段取りのシミュレーションが止まらない。あれをやらなきゃ、これを忘れちゃいけない。時計を見れば「あと4時間しかない」と計算して、ますます焦る。焦れば心拍が上がって、眠気はどんどん逃げていく。完全な悪循環です。

この構造、よく考えたら残酷です。睡眠は努力でどうにかできるものじゃないのに、早く寝ようと努力すればするほど遠ざかる。コントロールしようとしているものほどコントロールできない。人生の縮図みたいでもあります。

しかも、こういう日に限って「ちゃんと寝なきゃ」と真面目に考える人ほど苦しむものです。私もかつてはその真面目側の人間でした。睡眠アプリで深い睡眠を計測したり、睡眠負債の記事を読み漁ったり、寝る前のブルーライトを極端に避けたり。でもそれも全部、焦りの裏返しだったのでしょう。

寝る直前の「明日のタスク確認」も逆効果だと気づきました。枕元で段取りを整理したら、頭がフル稼働してしまって。今はやめることにして、やることは前日のお風呂あがりに紙に書き出し、布団に入る前には頭の中を全部閉じる。頭の中の棚を片付けてから眠る、みたいなイメージです。

そう考えると、あの夜のイライラの正体は「寝なきゃ」ではなく「明日を失敗したくない」という怖れだったのかもしれません。大事な日ほどリスクを考えすぎて、頭が休まらない。逆に言えば、前夜の眠りは「明日の結果」を実は何も左右していない。眠れても眠れなくても、朝は来るし、本番はやってくる。そう開き直るのが、いちばん理にかなっているように思います。

3時間もぞもぞして、深夜1時に「あきらめた」

先月もありました。翌朝6時に家を出る旅行の前日、21時に布団に入ったのに寝付けたのは午前2時。3時間ももぞもぞしていたんです。

最初は原因をスマホにしました。寝室の外に置いて、耳栓をして、アイマスクもした。副交感神経を優位にする音楽も試した。それでもダメで、だんだんイライラしてきて、深夜1時すぎに一度こう思いました。「もういい、寝られないなら起きてよう」と。

開き直った瞬間でした。次の記憶は朝のアラームで、どうやら10分も経たずに眠りに落ちていたようです。

あの日の旅行は、案の定寝不足スタートでした。それでも、前日の「あきらめ」があったおかげで、いつもの前夜よりはずっとましな状態で起きられました。ベッドでイライラしながら時間を無駄にするより、少しでも眠れたほうが勝ち。そう思えるようになっただけでも、この気づきには価値があったな、と。

同じ経験、他にもあります。就職の面接の前夜、大事な試験の前日、すべて「あきらめ」が効きました。逆に、何の予定もない休日の前夜は何もせずスッと眠れる。気合いを入れるほどダメで、手を抜くほど眠れる。あれは一体何なのか。

この悪循環、図にするとこうなります。

flowchart TD
    A[寝なきゃと焦る] --> B[目が冴える]
    B --> C[時計を見る]
    C --> D[残り時間が減る]
    D --> E[焦りが強まる]
    E --> B

追えば逃げるのが、睡眠

結局、睡眠は「早く寝ろ」と急かされるのを拒む生き物なのだと思います。

追えば逃げる。

そう割り切ってから、私は前夜の寝つきがだいぶ良くなりました。寝不足でも本番はなんとかなる、と知ったのも大きい。人間は思ったよりタフで、多少寝不足でも朝になれば動けるものです。

大事な日の前夜に眠れない経験、きっとみなさんにもあるはずです。私の結論は単純で、「眠れないなら眠れないでいいや」と手放すのがいちばん効く、ということ。もぞもぞした時間は、明日のための最後の休憩だと思うことにしました。それでも前夜が怖いという方、よかったらどうやって乗り越えているか教えてください。

「情報漏洩」のお詫びメール、1年で5通。私はもう何も対策していない

「情報漏洩」のお詫びメール、1年で5通。私はもう何も対策していない

ここ1年、私のメールボックスに「お詫びとご報告」というタイトルのメールが5通届いた。どれも書き出しは同じだ。

「弊社のシステムに不正アクセスがあり、お客様の個人情報が漏えいした可能性があります」

最初の1通が届いたのは去年のこと。深夜にメールの通知で目が覚めて、スマホを手に取った。「お詫びとご報告」。その言葉を見た瞬間、冷や汗が出た。氏名、住所、電話番号、カード番号。どこまで漏れたんだろう。暗い部屋で、カード会社に電話する日を頭の中で予定した。

ところが、だ。2通目が来た時、私はもう驚かなかった。3通目でため息、4通目で「またか」。5通目に至っては、タイトルを見た瞬間に「また漏れたか」と思って、本文を開くのさえ億劫だった。

「自分も同じだ」と思う人は、結構いるんじゃないだろうか。

ニュースに「情報漏洩」が並ぶ日々

最近のニュースを見ていると、情報漏洩の話題が絶えない。カーシェアの会員情報が最大約660万件漏えいし、うち免許証画像などは約160万件。退会した人の分まで含まれ、本人確認書類の流出としては国内最大規模と報じられた。宿泊予約管理システムへの不正アクセスもあれば、福利厚生サービスのアンケートをダウンロードしたら他社の従業員情報が表示された話もある。

どれも「お詫びとご報告」のメールが伴う。そのメールが年に何通も届く。これが、もう日常になっている。

「またか」が一番怖い

私が気になっているのは、この「またか」という感情だ。1通目に味わった恐怖と比べると、回を重ねるごとに反応が薄くなる。慣れと言えば聞こえはいい。でも、これは麻痺だと思う。

なぜ麻痺するのか。たぶん、漏えいと被害のあいだに、距離があるからだ。メールが届いても、すぐに自分の口座が引き落とされるわけではない。カードを再発行すれば、最悪の被害は防げることも分かっている。すると、「まだ大丈夫だろう」という気持ちが、対策を先延ばしにする。

さらに言えば、漏えいのニュース自体が、あまりに頻繁に流れるようになった。今日はこの会社、明日はあの会社。個々のニュースのインパクトが、少しずつ薄れていく。160万件という数字は大きいはずなのに、3日もすれば次のニュースに置き換わってしまう。この「消費のされ方」も、麻痺を加速させている気がする。

それに、被害が「目に見えない」のも大きい。現金を盗まれれば、すぐに気づく。でも、データの場合は、何が漏れて、どう使われたのか、ほとんど分からない。使われるのは数ヶ月後かもしれないし、誰かがまとめて買って、また別の場所に流れているかもしれない。不確実すぎて、気にする側が負ける。

漏れてしまった情報は、どんなに望んでも戻らない。

なのに「漏れた情報で何ができるんだ」という諦めが、次の一手を止めてしまう。データがどこかで売られていても、私には知るすべがない。だから対策をしない。私がお詫びメールを受けたとき、頭の中で回っているのは、こんな循環だ。

flowchart TD
    A[お詫びメールが届く] --> B{登録した覚えのあるサービスか}
    B -- はい --> C[全文を読む]
    B -- いいえ --> D[そのまま放置]
    C --> E{クレカや免許証が関わるか}
    E -- はい --> F[カードの再発行を申し込む]
    E -- いいえ --> G[パスワードは変えない]
    F --> H[数日たてば忘れる]
    G --> H
    H --> I[次のお詫びメールを待つ]

この循環から抜け出せないのが、実は一番の問題なんじゃないかと思う。

もちろん、冷静に考えれば、できることは限られている。パスワードの使い回しをやめる。二段階認証を設定する。カードの明細はこまめに確認する。どの対策も特別なことではない。それなのに、いざメールが届くと、「またか」の一言で流してしまう。

再発行の面倒さに負けた日

実際にあった話を、ひとつだけ書く。

2通目が届いた時、私は本文に「クレジットカード番号が含まれる可能性がある」と書いてあるのを見て、カード会社に電話をした。再発行には1週間かかる、と言われた。その1週間、私は普段の買い物ができないストレスを味わった。コンビニで現金を出す手間が、こんなに面倒だとは思わなかった。小銭を数える時間のなんと長いこと。

ところが、3通目が来た時、私はこう思ったのだ。「また同じ手続きをするくらいなら、今回はいいか」と。今から考えると、これは明らかに間違った判断だった。面倒くさいから、と言って、自分の情報の安全を棒に振るなんて。でも、その時の私は本気でそう思った。手続きの面倒さが、安全性より勝ってしまった瞬間だった。

私はその時、自分が「面倒くさがり」だということを、初めて自覚した気がする。仕事でセキュリティの話をする機会は多い。それなのに、自分の情報の安全には、人より無頓着だった。知識と行動は、こんなにも一致しない。そのギャップが、少し恥ずかしかった。

ちなみに、カードを再発行すると、紐づいていた月額サービスの自動更新もいったん止まる。音楽のサブスクが解約されていたことに、2日後、電車の中で気づいて焦った。再登録の手間も、地味に効いてくる。

その結果、どうなったか。幸い、いまだに不正利用の連絡は来ていない。だけど、これは「運が良かった」としか言いようがない。私の判断が正しかったから、ではない。面倒だからやめた、という選択が、たまたま裏目に出なかっただけのことだ。今この記事を書きながら、もし裏目に出ていたら、と少し冷や汗が出る。

次に届いたら、5分だけ

お詫びメールが届いても、面倒だからそのままにしている。そんな人は、私だけではないんじゃないかと思う。

でも、冷静に考えると、対策の大半は5分で終わる。カードの再発行は電話1本だし、パスワードの変更だって、1分あれば済む。漏れた情報は戻らない。だからこそ、次に届いた時に「またか」と流すのか、それとも5分だけ時間を取るのか。その5分の差が、数年後の自分を助けるかもしれない。

あなたのメールボックスにも、お詫びメールは届いていませんか。それに対して、あなたは何かしていますか。

1年で傘を12本失くした私が『安い傘をやめて』1本も失くさなくなった話

1年で傘を12本失くした私が『安い傘をやめて』1本も失くさなくなった話

今日、東京は34日連続の雨らしい。150年ぶりの記録だそうで、ニュースで見て「へえ」と思った。

そのニュースを見たとき、なぜか自分の傘の話を思い出しました。3年前までの私は、1年で傘を12本失くしていました。12本です。ひと月に1本のペース。しかも雨の日に限って、家に傘がない。玄関の傘立てをのぞいて「あ、昨日置いてきちゃった」と毎回のように気づく。あの脱力感は、今でも覚えています。

傘って、どうしてこんなに失くすんでしょうね。電車の網棚、居酒屋の傘立て、コンビニの入り口。だいたい自宅の玄関で「あ、忘れた」と気づくんです。

そんな私がどうやって直したかというと、特別なことは何もしていません。「安い傘をやめる」だけでした。

安い傘は「失くすために」売られている

ある日、ふと思ったことがあります。

安い傘って、もしかして「失くしてもいい」前提でつくられているんじゃないか、と。

考えてみると、100円のビニール傘も、コンビニの傘も、みんな同じ顔をしています。透明で、無地で、個性がない。だから記憶に残らない。傘立てに挿して3歩歩けば、自分の傘だったかどうかさえ思い出せない。

これはもう、失くすための設計ですよ。たぶん意図的じゃないけれど。

反対に、ちょっと変わった色の傘はどうか。あれは「置き忘れても目立つ」。会社の傘立てに3日置いてあっても、誰も持って行かないし、翌日でもすぐ見つかる。

失くしものは「大事さ」の問題じゃなくて、「思い出せるか」の問題なんですね。

失くす人と失くさない人は、性格ではなく「思い出の手がかりの数」で分かれている。

思い返すと、失くすものには必ず共通点がありました。安いこと。誰のものか見分けがつかないこと。失くしても「また買えばいい」と思えること。この3つが揃ったものほど、不思議と手から滑り落ちていくんです。

1年12本の内訳は、ぜんぶ安い傘

あの年の12本の内訳を思い出すと、ほぼすべてがコンビニで買った500円以下の傘でした。

いちばん印象に残っているのは、ある朝の一本。雨が降っていて、駅まで歩く途中でコンビニに入って買いました。その傘、買ってから2時間もしないうちに電車に置き忘れました。ホームで待って、座って、うとうとしたら、手元にない。見事でした。人間は「買ったばかりのもの」をいちばん失くす生き物なのかもしれません。

問題は、そういう失くし方をしても、まったく痛くないことです。500円なら、また買えばいい。12本、つまり1年で6000円。「失くし税」を払っていた計算になります。

痛くないから直らない。これがいちばんの問題でした。

対策は「1本だけ、目立つ色」

で、どうしたか。

まず、コンビニで傘を買わないことにしました。雨の予報を見たら、出かける前から家の傘を持つ。持ち歩くのが面倒で、つい買ってしまう、その動線を断ちました。

そして傘を1本だけにしました。色は明るいオレンジ。ほかの人と絶対に被らない色を選びました。値段は3000円。今までの6本分ですが、半年で元が取れました。

最初は「3000円は高いな」と迷いました。でも考え方を変えると、これは出費ではなく投資です。失くすたびに500円を払い続けるより、最初に一度だけ3000円を払う方が圧倒的に安い。実際、オレンジの傘を買ってから、傘への年間出費は6000円からほぼゼロになりました。

オレンジの傘を買ってから、行動が変わりました。店を出るとき、傘立てを振り返るようになったんです。置き忘れる前に「あれ、傘」と思い出せる。視界にオレンジが入るから。もし忘れても、遠くからでも見つかる。居酒屋の傘立てにオレンジがあったら、それが自分の傘だと分かる。

これまで私が繰り返してきたのは、こういうサイクルです。

flowchart TD
    A[安い傘を買う] --> B[無個性で記憶に残らない]
    B --> C[置き忘れても気づかない]
    C --> D[失くす]
    D --> E[また安い傘を買う]
    E --> A

これを断ち切ったのが、オレンジ1本でした。

オレンジの傘にしてから3年。失くした本数はゼロです。1本も。

失くしかけたことは1回ありました。会社の傘立てに忘れて帰って、翌朝見に行ったら、まだ刺さっていました。オレンジの傘は誰にも持って行かれない。「高いから盗まれない」のではなく、「目立つから持って行かれない」んですね。

失くしものは「性格」ではなく「設計」

振り返ってみると、私は傘だけでなく何でも失くす人間だと思っていました。財布も、イヤホンも、手袋も。でも今は違います。私は「失くしやすい人」だったのではなく、「失くしやすい環境をつくっていた人」だったんだと思います。

その考え方をほかの持ち物にも広げました。財布は明るい色のものに替え、イヤホンは使ったら必ず同じポケットに戻す。手袋は左右で柄が違うものを選びました。「見分けがつく」工夫をひとつ足すだけで、失くす回数は確かに減りました。

道に片方だけ落ちている手袋を見かけると、昔は「失くしものの多い人だなあ」と思っていました。今は少し違う見方をします。あれも、その人にとって「思い出の手がかり」が足りなかっただけなんだろうな、と。

安いものを買うのは悪いことじゃありません。ただ、ひとつだけ確かなのは、「失くしてもいいもの」は、本当に失くす、ということです。ちょっと高くて、ちょっと目立つものは、ちゃんと手元に残る。

私はこの話を「得したか損したか」で数えるのをやめました。3000円の傘は、とっくに元を取っています。毎年6000円の失くし税を、オレンジ1本が防いでくれているので。

皆さんは、今年、傘を何本失くしましたか。もし「毎年失くす」という自覚があるなら、試しに1本、目立つ色の傘を買ってみてください。それだけで、玄関に傘が残っている朝が増えるはずです。

積読が100冊を超えたのに罪悪感ゼロ──本を買うのは未来の自分への約束だと気づいた話

積読が100冊を超えたのに罪悪感ゼロ──本を買うのは未来の自分への約束だと気づいた話

「積読」という言葉がある。買ったのに読んでいない本を、積み上げたままにしておくことだ。誰が名付けたのか知らないけれど、実に言い得て妙だと思う。私の本棚には、その「言い得て妙」が100冊分も並んでいる。

私の本棚の上段には、まだ日焼けしていない背表紙が三段に並んでいる。去年、数えてみたら100冊を超えていて、さすがに驚いた。引っ越しのたびに段ボールの重さに腰をやられながら、それでも本を買い続けている。先週も一冊買った。書店で目に留まって、帯の一文に心を掴まれた。読む時間が確保できるかは、まったく考えなかった。

かつての私なら、これを「悪い癖」と呼んだだろう。買ったのに読まない。お金と場所の無駄。積み上がる背表紙を見るたび、律しきれない自分を嘆いていたはずだ。

でも、正直に言うと、積んである本を眺めるのはいつの間にか好きになっていた。並んだ背表紙を見ていると、自分の中にまだ知らない興味が眠っているみたいに思える。本は、読むために買う。それは間違いない。けれど、買った瞬間の「この本を読みたい」という気持ちにも、ちゃんと価値がある気がする。たぶん、ここが私の気持ちの出発点だ。

買うのは「読書の予約」

本を買うという行為を、私は最近「読書の予約」だと思うようになった。購入した瞬間、その本はいつか開く日のために待機する。「読んでいない本」ではなく「これから読む本」なのだ。

読むタイミングは、本人にしかわからない。仕事に追われているとき、頭を休めたいとき、心が空っぽのとき。どの本がどの日に必要になるかは、買った日の私には絶対に予測できない。だから、読めない時期に買ってしまう自分を責めるのは、間違っているのかもしれない。予約したのに、来店日を待っている客を責めるようなものだ。

たとえば、去年買った海外文学の翻訳本は、栞を挟んだまま半年が経つ。それでも私は焦らない。いずれ読む日が来るとわかっているからだ。買ったときの「読みたい」という高揚感は、胸に残ったまま、少しずつ熟していく気がする。

白状すると、この考えは半分だけ本音だ。積読を肯定するのは、読まない言い訳をきれいな言葉で飾っているだけ、という見方も確かにある。本は買ったら読むのが本来の姿だ。そこは否定しない。

それでも、と思う。「本を読む」と「本を持っている」は、似ているようで違う楽しみだ。読む楽しみは、物語や知識を味わうこと。持つ楽しみは、いつでも手に取れる安心感に近い。本棚は、私にとって小さな図書館なのだ。図書館で何冊も借りてきて、返却日に読み切れなかったことは、誰にでも一度はあるだろう。あれを責める人はいない。読める日のために借りたのだから。

人間の気持ちは、その日の体調みたいなものだ。今日読める本もあれば、今日は読めない本もある。三年前の私が読んでも響かなかった本が、今の私には深く沁みることがある。逆に、今の私が読みたい本が、昔の私にはまったく見えていなかったこともある。本との出会いは、そのときの自分の状態に左右される。だから、読む順番やタイミングは、本が教えてくれる気がする。

買うという行為は、そのときに「読みたい」と感じた気持ちの記録だ。積んである本は、そのときどきの自分の興味の履歴書でもある。100冊の積読は、100回の「読みたい」が積み重なった姿なのだ。読み切れなかった本が積もるのは、時間が足りない証拠ではなく、興味がまだ尽きていない証拠なのかもしれない。そう考えたら、棚の圧迫感が、少しだけ温かいものに見えてきた。

五年間、待っていた一冊

五年前、旅行先の古本屋でエッセイ集を一冊買った。値段は150円。表紙の絵が気に入って、中身もろくに見ずにレジへ持っていった。帰宅してから、一度も開かなかった。それどころか、どの旅行のときに買ったのか、中身がどんな話なのか、買ってすぐに忘れてしまった。本棚の二段目と三段目の境目で、ただ静かに場所を守っていた。

その本が初めて開かれたのは、昨年の冬だった。仕事でしくじって、電車の中でずっと考え込んでいた夜。気をそらすために本棚から無造作に抜いた一冊が、それだった。

最初の一篇は、主人公が電車を乗り間違える話だった。降りたことのない駅に降り立ち、呆然としながらも少しだけ歩いてみる。すると見慣れない景色に、気持ちが静かになっていく。まさに、その週の私だった。夜の静かなホームで、私は何度もその一文を読み返した。

偶然に決まっている。でも、この本を三年前に読んでいたら、ただの他人の失敗談だったはずだ。あの日、あの夜、あのタイミングで読んだから、背筋がぞっとするほど自分の話に聞こえた。積みっぱなしの五年間は、この日のための待機だったのだろう。

積んである本は、失敗ではなく待機だ。

その日以来、私は積読を責めるのをやめた。買ったときに読みきれなくても、それは約束がまだ守られていないだけ。約束は、破られない限り、いつか必ず果たされる。棚にある本は、どれも出番を待っている。そう思うと、本棚を見る目が変わった。焦る必要はなくて、ただ、いつか開く日のために置いておけばいい。不思議なことに、責めなくなった分だけ、本を読むのが楽しくなった。

積読を許したら、本を読めるようになった

本棚の上段には、まだ出番を待っている本がたくさんある。この前買った一冊も、そのうちの一冊になる。何年か先の私が、ちょうどいい夜に開くのだろう。

読まない本を責めていた頃より、ずっと本を読めるようになったのは、ちょっと皮肉な話だ。積読を許したら、心に余白ができた。その余白で、読みたい気持ちが素直に出てくるみたいだ。積読を解消しようと焦るのをやめたら、逆に読むことが日常に戻ってきた。朝の電車で数ページ、寝る前の布団の中でもう数ページ。義務ではなく、楽しみとして本が読めるようになったのが、何よりの変化だった。

あなたの本棚の奥にも、出番を待っている一冊がありますか? それとも、私みたいに積んでおく派ですか?